「使わないと衰える」──便利な時代にこそ、自分で暮らす力を育てる

自分でできることを増やす

最近読んだ、稲垣えみ子さんの「家事か地獄か」を読みその中で、思わず目が止まった一節がありました。

ちゃんと「自分にできること」さえあれば、どれほど衰えても人は前を向いて生きることができるのだ。」

とてもシンプルな言葉ですが、深く考えさせられました。

便利な暮らしが生む「感覚の退化」

私たちの暮らしは、今や便利さにあふれています。掃除ロボット、食洗機、自動調理器具、AIによる自動応答や検索補助――これらのツールによって、手や頭を使わずに済む場面が増えました。便利になったことで、時間も手間も減ったはずなのに、なぜか心身ともに疲れている人が増えている。そう感じたことはありませんか?

便利さの裏には、新しく覚えることができなくなった時に、孤立する危険性を含んでいるのではないか?という警笛のようなものが書かれていました。さらに進んで、「今の社会はアルツハイマーを自らが生み出しているのではないか」というようなことも書かれていました。

どこまでも「便利」を追求し続ける今の社会は、実は認知症患者をせっせと増やし続ける社会ってこと…?
で、おそるおそる周りを見渡せば、いやはやもうマジで大変なことになっているんである。

自分で身の回りの家事をこなすことが脳を守る?

印象的だったのは、アメリカのスノウドン博士によるナンスタディという研究結果でした。ナンとは修道女のこと。修道女のグループを対象に、長年の生活習慣と脳の健康の関係を研究したところ、実際にはアルツハイマーの病変は認められるものの、認知症を発症しなかったというくだりです。

修道院には100歳を超えても頭が冴え渡っている修道女がたくさんいて、その亡くなった後の脳を解剖したところ、脳にはしっかりアルツハイマーの病変が出現しているのに、現実には認知症を発症しなかったケースがあることがわかった。

その共通点は、「とてもシンプルな暮らし」でした。毎日掃除をし、食事を作り、日々の家事を手を抜かずに自分の手でこなす。自分のことは自分でするという姿勢こそが、脳を健やかに保つ鍵だったのではないか、というのです。

これにはビックリしました!

だって便利な方がいいって思っていたのに、これまでの手を使った生活の方が本来の人間の生理にとっては理にかなっているというんですから。これまで通りもっと楽に、もっと便利にを追求していくと認知症になるなんて!

厚生労働省は、スマートと呼ばれる経済活動を一旦やめさせて、別の経済活動を始めなきゃ健康的で明るい老後はないってことを認識しないといけませんね。

AI時代の「便利さ」とどう向き合うか

とはいえ、今のAIの技術発展は凄まじいものがあります。この流れはもう止まらないでしょう。

我々の生活の中にもAIが台頭し、文章や資料の生成やスケジュール管理、意思決定まで自動化されつつあります。私自身、AIの便利さを感じる一人です。でも、稲垣さんの本を読んで、便利さの裏にある“失っている何か”にも目を向けなければならないと感じました。

インターネットが普及し始めた頃、「もう、煩わしい面倒なことはパソコンやインターネットが行い、人はクリエイティブなことに集中できる時代が来る」と語られていました。(そんな記事を読んだことがあるぞ)しかし30年経った今、私たちはいまだに紙を使い、単純作業や情報の波に押し流され、本来の感覚や直感力が当時に比べても鈍ってきているのではないでしょうか。

技術の発展によって人間はもっとできることが増え、豊かな暮らしを得ることができると信じていたのに、30年経った今、あるのは凄まじい勢いで過去のデータを学習して、ある意味人間を凌駕しそうなほどの知能を持ったAIの出現と、今や不要になった手仕事などの技術の衰退と、自らの判断をあまり必要としない一見便利な生活でした。

「できること」を増やす暮らしを目指して

もうすぐ50代も後半に差し掛かる私は、これからの人生を健康で、穏やかに過ごしたいと願っています。だからこそ、畑に出て、季節の変化を肌で感じ、手を動かして作物を育て、家事をこなす日々を大切にしたいと思っています。

今はできないことも、挑戦してみる。苦手なことにも向き合ってみる。そうやって、自分で「できること」を少しずつ増やしていく。そして、たとえ年を重ねて身体が思うように動かなくなったとしても、その時の自分にできる範囲で、自分らしい生活を続けていきたいと思っています。

間違いなく体は衰えていくので、そんな体でも自分のことは自分でできるくらいの小さな生活を心がけ、自分で掃除洗濯し、作れるくらいのシンプルな食事を作り、食べた食器を手で洗い、いつも同じものだけど清潔な服装で、可能な限り誰かの迷惑にならないように生きるのが理想です。

「続く生活」という名前に込めた思い

私がこのブログに「続く生活」という名前をつけたのは、人生は日々の選択と行動によって形づくられると信じているからです。

お金があるかないか、家族がいるかいないか、どんな環境にあっても生活は続いていきます。その時に何を選択するかはその人次第。どんな環境、境遇であっても日々を楽しく暮らす方を選ぶことはできるのではないか?そう思います。だったら、自分の手で、心で、楽しそうなことを選んで日々の暮らしを編んでいこう。そんな思いを持ち続けていきたいと思っています。

多少なりとも不便そうに思えることでも、楽しみながら自分でできることを見失わずに生きていく。それこそが、この先の人生を豊かにする鍵なのではないかと思っています。


まとめ:やらなければ、本当に何もできなくなる

「使わないと衰える」――これは身体にも、感覚にも、そして生きる力にも通じる言葉です。面倒だからといってやらないでいると、本当に何もできなくなってしまう。だからこそ、毎日自分で手を動かし、感じ、考え、生きる。そんな暮らしをこれからも続けていきたいと思います。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

無理せず楽しく、手作りの小さな暮らしを大切に。
アラカンの「つづく生活」実践者です。
半自給自足を目指しながら、仕事・趣味・家のことをコツコツ楽しんでいます。
日々を淡々と綴ることで、人生を整えるヒントが見つかればと思っています。

目次