誰かがきっと見てくれている

誰かがきっと見てくれている

先日、SNSでつながっている方の商品を購入しました。商品が届き開けてみると、手書きのお手紙が入っていました。そこには、私のブログを読んで「感動しました」と綴られていて、驚きとともに、体が震えるほど嬉しい気持ちになりました。

この「つづく生活」というブログは、自分自身の備忘録のようなつもりで書いています。誰かに読んでもらいたいなんて思ったら、恥ずかしくて何も書けなくなってしまいます。しかし、正直いうと、「誰かの役に立てたらいいな」という思いも心のどこかにあります。そんな気持ちが、思いがけず誰かの心に届いていたことを知り、感激してすぐにメッセージを送りました。

そのやりとりの中で、少し誤解を招くような表現があったかもしれないので、ここで少しだけ補足しようと思います。

私たち夫婦は、4年前に「腎移植」という大きな出来事を経験しました。ありがたいことに術後の経過も良く、今は元気に過ごせています。

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元来、私の母親が「なんでも人に言うな!」「恥になる様なことを知られるな!」と言うような人で、子供の頃からそれが大嫌いでした。そのせいか、わりかしなんでも話す性格になっていった様な気がします。しかし自分のことを知られたり、自分が誰かのために何かをするのは平気なのですが、自分を助けてくれたことに関しては、妙に返さないといけない気持ちがあって、出来るだけ自分でやる様になりました。それはそれでよかったのですが、この手術の前にこれはもう、自分たちだけでは乗り越えられないかもしれない。頑張らないといけないことや難しいことは、あっさり人にお願いしたほうがいいと考えました。そう言った意味で関係している人には移植手術をすることを隠さずに話していました。もちろん本当に助けてくれた人がほとんどだったけど、無反応の人もいて「あれ?」って思ったことがありました。

お手紙をくださった方も、ご自身が大きな病と向き合っておられるとのこと。でも、自分の気持ちをなかなか言葉にできないと書かれていました。そんな中で、私のブログに共感し、「同じように悩んでいる人に向けて、自分のことを書くなんてすごい」と言っていただきました。

私が以前ブログで「病気のことは、話しても話さなくてもいい。わかる人はわかるし、気にしない人は気にしない」と書いたことについて、その方は「無関心なのではなく、踏み込むのが難しかったのだと思う」と返信をくださいました。その言葉にはっとさせられました。

確かに、いきなり「私たち腎移植したんです」と言われても、戸惑ってしまう人もいますよね。その大変さや背景は、なかなか伝わらないものです。今は、聞かれたときには正直に話すようにしていますが、自分から話すことはやめました。

それは、相手への思いやりからです。私たちはたまたまうまくいきましたが、そうでない方もきっとたくさんいると思うから。病気に限らず、大切な人を失ったり、大きな悲しみを抱えている人もいるかもしれません。だから、「自分たちは大丈夫だった」と声高に言うことが、時に誰かを傷つけてしまうこともあるのだと、ようやく気づけるようになったのだと感じています。

オープンにすること、黙っていること、そのバランスは人それぞれですが、あまり自分の中で抱え込まず、自然体で少しずつ心を開いていられる場所があるといいですよね。

長くなってしまいましたが、お手紙に書かれていた「感動した」という言葉がとても嬉しかった。ブログを書き続けてきて、本当によかった。

たとえ、日本中でたった一人でも、その人が何かを感じ取ってくれたなら、それだけで十分です。人気ブロガーになりたいわけでも、収益を得たいわけでもありません。ただ、ネットの中の小さな記事が、誰かの心に届いたということが、私には奇跡のように思えます。

そして、奇跡は、思っているだけでは起きません。行動してこそはじめて起こるものなのだと、私は信じています。

お手紙をくださった方、本当にありがとうございました。私のほうこそ、心から感謝しています。

これからも、忘れたころに更新するかもしれませんが、またよろしければ、読みに来てくださいね。

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この記事を書いた人

小さな生活をコンセプトにしているアラカンのおっさんです。
半自給自足を目指し仕事も趣味も楽しみながらつづく生活を送っている日々を綴っています。

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