興味のあることと続けられることこの2つができればきっと大丈夫。ここ数年コロナが始まるくらいから考えてきたことが、やっとまとまってきました。結論はこれ。
- 好きなことしかうまくいかない(頑張らない・無理しない)
- 続けていればなんとかなる(続けられるというのは才能がある証拠。場数を増やせばある程度のところまでは上達する)。
- 頭で考えるより行動することに意味がある。(考えすぎない。やることやったならあとは運を天に任せろ)
- 自分を責めても何にもいい事はない。人と比べない。(自分より上手くいってそうな人と比べて、勝手に落ち込むほど無駄なことはない。)
- 正しい努力しか実を結ばない(どれだけ頑張ったつもりでも意味のないことを積み重ねてもゼロはゼロのまま)。
そんなの当たり前という声が多いのはわかっています。しかしわかっていてもできている人がどれだけいるでしょうか。あなたが好きなことはなんですか?と聞かれたらすぐに答えられますか?そしてそれに関することを毎日続けていますか?それからそれを今より上手くとか、上手にとか思ってやる時に工夫すると思うんですけど、無駄なことやっていませんか?工夫して上手くいかなくても大丈夫です。間違ったやり方を一つ知れた。経験できたという事です。
なんにせよ一番大切なのは頭でどうすれば上手くいくことばかり考えるのではなく、考えた後に必ず行動することなんです。好きなことを正しい努力で続けていく。これしかありません。その対象が見つかったら人生勝ちです。失敗しても諦めなければ失敗なんかじゃありません。それはただの経験です。一つ間違ったやり方を知った。ただそれだけです。
ふと考えてみた。もしこのことを20代の頃に気がついて、好きなことを続けていたら今とは違った人生だったんじゃないかって。しかし20代の頃といえばまだまだ血気盛んで「こうでなければならない」の考えの人だったので、今こんな自分じゃダメだの連続だったし、失敗するとめっちゃ凹んで「どうせ俺なんか」と自分を責めまくっていました。
ですので、20代の頃にこの考えに出会っても同じ人生を繰り返していたと思います。しかしやっと今、自分の中で考えがクリアになってきてこれから少し変わっていくかもと思えたので、言語化してまとめてみたいと思います。
好きなことしかうまくいかない。
本当にこの一言に尽きると思います。いつ自分が好きなことに出会えるのか?出会った時にどれだけ好きになって続けられるかなんです。どんな人だって子供の時に一度や二度くらい、ずっと好きで続けられることやものがあったはずです。しかし大人たちが「そんなこと続けていたってどうせなれないんだから、さっさと諦めて勉強していい学校に入って、いいところに就職しなさい。」とか言って好きなことを諦めさせちゃう。そして一度諦めたらどんどん好きなことを忘れていって、本当に自分が好きなことを思い出せなくなっていくものです。子供の頃なら嘘偽りのない自分と向き合えるのに、常識や周りの目、どうせそんなのできるわけないって思い出すと、だんだん柔らかい自分の心に殻ができてきて、知らないうちにガチガチの硬い殻に覆われてしまいます。そうなったら本当に自分が好きだったことを見つけるのは難しくなります。
第一頑張ったり、無理したりしても、それが本当に好きな人には敵わない。だって好きな人はどれだけでもそこに時間を費やせるから。好きでもないのに時間やテストの点数など指標だけで比べようとしても、量も質もそこに投入できる自分のリソースってそれ以上にはならないと思いませんか?
人はみんな何かの天才としてこの世に生まれて来たと思います。天から才能を授かってこの世に生まれて来るのだと。その才能がその人にとっての「好き」なことなんです。
好きなことはいつまでも飽きずに続けることができます。1日のうち何時間だって。そして毎日だって続けられます。お母さんや先生に言われなくったって自分で率先してすることができます。だって楽しくって大好きだから当たり前ですよね。最近若い人たちがよく「タイパ」とか言って無駄を省いて最短でしようとするけど、効率なんて意味ないです。最短で何かができるからってだから何なのでしょうか?何かができるとか理解できたかどうかなんてどうでもいい話です。それをずっと続けられるかどうかの方が何百倍も意味があります。いろんなことができたって本当に好きなことを分かっている、知っている。そしてそれを毎日やっているかどうかの方が意味があります。要は好きかどうかなんです。そしてそれを続けているかどうかの方がずっと大切なことなのです。
どんなに才能がなくっても(いや続けられている自体もう才能があるけど)毎日やっていたらそれなりにうまくなるものです。そうなっていないのはやり方が間違っているのであって、才能がないということではないです。やり方が間違っているのなら正せばいいだけなんです。
イヤイヤやっていることなら何も考えずに時間だけ過ごしてしまうものですが、それに興味があればどうすればそれがうまくいくようになるか自分で考えるようになります。漢字の書取りでも夏休みの宿題のように、ただページの空白を埋めればいいものと、覚えようとして行う行為ではまるで結果が違ってくるのと同じです。ゼロに何百回ゼロをかけてもゼロはゼロのままです。それを1に変えるのは、自分の事として頭で考え工夫するしかありません。
頭で考えるより体験することのほうが大切
知識はとても大切だけれども、知っているだけでは意味がありません。その知識を使って行動を起こし経験する方がずっと大切です。失敗しても大丈夫。失敗は諦めなければ失敗ではありません。間違ったやり方を一つ知っただけのことです。次からやらなければいいだけのことです。
やるだけやって後悔しそうな時は、「考えない」。
考えたって悪いイメージが膨らんでいくだけで何一ついいことなんてありません。
そんな時は、美味しいものを食べたり、お風呂に入ったりして思考を停止しましょう。
だって考えてみてください。
もう死にそうなくらいの失敗をして、めちゃくちゃ落ち込んでいたとします。食欲もなく何もする気になれない。あぁ〜もうマジ死にてぇ〜とか思っちゃって、あの時ああすればよかったとか、あいつがいなければとか思ったところで、もう元には戻れません。第一そんなのは考えているのではなく、妄想しているだけです。
そんな時にですよ、隣の家が火事になったとか、車に乗っていたら追突されたとか、ダイハードばりに事故に巻き込まれたとか、南海トラフ地震が起きたら、その一瞬は今まで考えていた嫌なことを忘れているでしょ。
そんなことないという人もいるかもしれませんが、一瞬は忘れているんです。もう死にたいとか言っていた、自分の未来をその失敗が全て壊してしまった。そんなお先真っ暗な状態でも、それ以上に大変な状態になったら、実際は忘れてしまうそれくらいなものなんです。
これから先の未来なんて誰にもどうすることも出来ません。できるのは「今」をどうするかだけです。何かできることがあればやればいいし、やり尽くしたのだったらもう考えるのはやめて、風呂にでも入って頭を空っぽにする方が良い知恵が浮かぶかもしれません。
自分を責めても何にも変わらない
自己肯定感とか言われますが、日本ってどうして自己肯定しにくい世の中なんでしょうか?私、思いっきりネガティブで自己否定する人間だったのですが、自己否定しても何も解決しませんし何も好転していきません。
自己否定ってそもそも人と比べるからやってしまうことなんだと思います。やりたい事。なりたい姿があってそれに向かって何かをやる。でもうまく行かない。そうした時に必ずうまくやっている人。自分には出来ないことが最も簡単に出来ている人がいる。その人と比べて、「なんて自分はダメなんだろうか」って考えちゃう。
でもね、そもそもその人と私ってめっちゃ違っていて、単に努力や才能だけの問題じゃない。その人がどれだけすごい人だとしても、自分の人生においてそれほど関係ないことです。
それよりも今はここまでしか出来ないけれど、もう少し上手にできるようになりたい。どうやったらそれができるようになるか自分で考えてみる。思いついたことを出来そうなことからやってみる。大抵は上手くは行きません。だけどまた考えてみて、また挑戦してみる。そこに私以外の比べる人は関係ありません。もし結果で負けていたとしてもそれで人生が全て決まるわけじゃないし、生きているうちの通過点にすぎません。
「私なんてダメだ!」そう思った時点でダメなんです。
「次はうまくいくかも」こう思ったら未来が少し明るくなります。
自分をもっと愛しましょう。自分を幸せにしないで誰を幸せにするんですか?最愛の人もあなたの不幸せの上に幸せになりたいなんて思わないでしょ?共に幸せになりたいとそう願っているはずです。
いつも「今」いつも「自分」でいいんじゃないでしょうか。
人の事が気にならないくらいに、自分のことを好きになれば自分を責めることもないし、人と比べることもやめれるようになると思います。すぐには難しくても、自分を否定してもいいことはない!ってことだけ知っていれば大丈夫です。
色々と書きましたが、どうしてこのようなことを書いたのかと言いますと、実はある番組で紹介された本がきっかけなんです。
コロナ前に奥さんがプレゼントしてくれて軽い気持ちで読んでみましたが、何これ?めっちゃ面白い。どんどんハマり何度も読み返しました。特に自分自神というところの、
人は神様に参拝することで自分のことを信じて、自分に向き合う瞬間を持つことができる
稲荷神社のキツネさんより
キミは心の底から自分のことを信じたことある?
キミの中に常にある「失敗したくない」という気持ち
お金を稼ぐことへの罪悪感、羞恥心
その罪悪感、羞恥心が分厚いからとなって本音や才能を眠らせてしまっているのさ
お宝はそこに眠っているのに!
何?自分と向きあうだって!これまで神様へのお参りって財布の中の小銭を入れて、家内安全、無病息災、宝くじが当たりますようにとかくらいなものだったけど、あたなが願っていることってそんな1円とか5円くらいなものだったの?って気づいて、すぐに祐徳稲荷神社へ行ってきました。
どうして祐徳稲荷神社だったかというと、どうせいくなら有名な所にしたかったという理由と、少し遠いところで旅行気分を味わいたかったからです。
その頃将来に対してすごく不安を覚えていたこともあり、自分のこれからどうしたいかを神様へお願いし、思い切ってお札を賽銭箱に入れました。そうした方が本気になると思ったからです。
最初のお参りから3年の月日が経とうとしています。あれからお願いしたことはまだまだ遠いけれど、毎日幸せに暮らせています。それもこれも冒頭で書いたことに気がついて、それを信じてやっているからだと思っていますし、まだまだ夢、半ばではありますが、自分の考えを言語化しておきたかったのでこのようなことを書き示しました。
これらは私が思ったことをまとめたことで、誰かにとっては合わなかったり、軽々と出来ている人も多いと思いますが、もし誰かの役に立つことがあれば、シェアできると嬉しいです。